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大韓民国臨時政府

青山里戦闘に続き、現代韓国の建国の基礎をなす大韓民国臨時政府について書いてみたいと思います。

 

大韓民国臨時政府とは、いわゆる日帝強占期に日本の支配に対抗して設けられた、いわゆる亡命政府の一形態です。亡命政府とは、革命や政変が起きた際に、旧権力が統治国を追われ、他国など別の場所で政府組織を作り、活動をすることをいいます。有名なものに、第2次世界大戦下のフランス・ヴィシー政権におけるシャルル・ド・ゴール自由フランス(France libre)があります。

 

では、大韓民国臨時政府を比較してみます。

(該当部分を抜き出して比較しています。)

 

 韓国語版

大韓民国臨時政府、英語: Provisional Government of the Republic of Korea, 1919年〜 1948年)は、1919年9月11日の日本帝国の侵略と朝鮮半島の強みを否定し、国内外の抗日独立運動を導くために各地に設立された臨時政府が統合して設立された大韓民国の臨時政府である。略して臨政とも呼ぶ。

1941年太平洋戦争が勃発すると、臨時政府は、連合国の一員として日本とドイツに宣戦布告した。 

 

日本語版

大韓民国臨時政府(だいかんみんこくりんじせいふ)は、1919年に朝鮮の独立運動を進めていた活動家(李承晩、呂運亨、金九など)によって設立された臨時政府。 

中華民国の上海で結成され、日中戦争勃発後は重慶に移ったが、枢軸国・連合国双方からいかなる地位としても認められず、国際的承認は得られなかった。 

金九と 外務部長趙素昴名で大韓民国 23年12月10日に宣言したが、日本政府に布告文書は通達されておらず、実効性は皆無。 

 

これらを見てもはっきりしているように、「対日宣戦布告の実効性」と、「連合国の一員であったかどうか」、全く異なる表現になっています。

 

実は韓国語版の記述は、かなり微妙な書き方をしており、日本語版の記述と矛盾しないとも言えます。

 

宣戦布告の効力は、国際法上は相手国が受領した時点で発生するとされていますが、戦争が宣戦布告によって開始されるとは限りません。(日本の真珠湾攻撃やドイツのポーランド侵攻など)。

 

韓国語版ウィキペディアは、宣戦布告の効果があろうとなかろうと宣戦布告をした、という事実を書いているだけだと主張することも可能です。

 

また、大韓民国臨時政府が連合国の一員であるかどうかについては、国民党政府や米国OSSの命を受けてテロ(天皇爆殺未遂事件)や窃盗を行ったという史実もあり、全く縁がないとは言えないようです。

 

これらをもって、「連合国の一員」と主張することは、当事者の立場からすればそういいたくなることなのかなと思います。

 

もちろん無理のある主張だと思いますが。。。

 

下記はその宣戦布告の原本とされているものです。

f:id:t_a_k:20130821140405g:plain

 

青山里戦闘が強調される理由

青山里戦闘は、日本においては、そのような戦闘行為があったというエピソード程度の扱いでしかありませんが、韓国では非常に重要な歴史上の出来事です。なぜならば、大韓民国建国の理念に関わるからです。

  • 日韓併合を申し出た大韓帝国は正統性がなく、現在の大韓民国は、朝鮮王朝の系譜に連なる上海臨時政府から受け継いでいる

  • 上海臨時政府は、韓国の正規軍であり、連合国の一員として枢軸国のドイツと日本に宣戦布告した

  • 日本の敗戦後、韓国を統治したのは上海臨時政府であり、金日成が樹立した政権はは韓国北部の抵抗勢力のグループに過ぎない。

韓民国憲法には、その建国理念として、

「悠久の歴史と伝統に輝く私たち大韓国民は3.1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と不義に抵抗した4.19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して正義・人道と同胞愛により民族の団結を強固にし、すべての社会的弊習と不義を打破し、自律と調和をもとに自由民主的基本秩序をより強固なものして政治·経済·社会·文化のすべての領域において各人の機会を均等にし、能力を最高度に発揮するようにして、自由と権利に伴う責任と義務を果たすようにし、内には国民生活の均等な向上を期し、外には恒久的な世界平和と人類共栄に貢献することで、私たちと私たちの子孫の安全と自由と幸福を永遠に確保することを約束しながら、1948年7月12日に制定され、8回に渡って改正された憲法を今、国会の議決を経て、国民投票によって改正する」

 と前文で謳われています。単なるエピソードではなく、現在の政権の統治の正統性に係る重要な出来事なのです。

従って、この戦闘は建国神話として徐々に強調されるようになり、今では、日本での「桶狭間の合戦」のような大スペクタクルドラマになっています。むしろ、イザナミノミコトやオオクニヌシノミコトの、国生み神話のようなものかもしれません。

青山里戦闘

最も大きな違いは、この戦闘を韓国語版は韓国勝利、日本側は戦術的には日本の勝利、戦略的には殲滅の失敗としている点にあります。また、日本側の死者の数が大幅に異なっており、韓国語版では916〜1200人の戦死+3,300人以上の負傷、となっていますが、日本語版では11人の戦死+24人以上の負傷となっています。

 

日本語版

青山里戦闘(せいざんり(チョンサンリ)せんとう)は、1920年10月に行われた間島出兵における日本軍と朝鮮人の独立運動武装組織及び中国人馬賊との緒戦闘のうち、和竜県内で10月21日から26日にかけて行われた戦闘の、韓国側による呼称。

結果

独立軍の主力と衝突した日本軍は第19師団の東支隊のみであり、その戦いも数日のうちに独立軍の撤退という形で終わり、他の支隊では散発的な小規模戦闘がみられただけで、その後も第19師団は同地に留まって掃討や対日宣伝に従事している。11月6日に日本政府は間島出兵の善後策について北京及び奉天と外交交渉を始めることを閣議決定し、これに基づいて朝鮮軍司令官は12月20日までに全部隊の撤兵を完了することとした。その後、第19師団の諸隊は概ね目的を達して翌1921年初頭にほぼ撤兵し、同年5月までに完全に撤収した。

一方、満州を逃れた朝鮮人武装組織はレーニンが構想した遠東革命軍に参加するためロシアのスヴォボードヌイ(自由市)に集結したが、内紛のすえ1921年6月27日に武装解除を拒否して赤軍と衝突し壊滅した(自由市惨変)。青山里の戦いで指揮を執ったとされる金佐鎮は、その後満州に戻って農民に寄食生活していたが資金や武器が底を尽き、武装活動を辞めて寧安県蜜山県地方で農民に転向するための資金援助を日本側に願い出ていたが[10]日本政府に許可されず、1930年1月24日に朝鮮人の共産主義者、朴尚実によって射殺された。同じく戦いの指揮を執ったとされる洪範図は、その後赤軍に吸収され、高麗人としてカザフスタンに強制移住させられその地で没した。

間島出兵は武装組織の掃討に一定の成果を挙げたが、朝鮮と中国との間に抱える間島問題は未解決のままであった。1930年には中国共産党が関与して間島共産党暴動が起こり、1931年には朝鮮人・中国人が対立して長春万宝山事件、逆に朝鮮では朝鮮排華事件に至った。満州事変によって日本の軍事的支配下に入った後もこの地域の抗日パルチザンを最終的に治めるには至らず、1937年には金日成らが朝鮮領内に侵入して普天堡襲撃事件を起こしている。

 

 韓国語版

青山里戦闘(靑山里战鬪)や青山里大勝(靑山里大捷)は、1920年 10月 、金佐鎮、私の中小(罗仲昭)、西日イボムソクなどが指揮する北路軍政署軍(北路军政署军)、洪範図が指揮するために、独立軍の臣民段隆起臣民ただし、独立軍など中心に活躍した満州独立軍の連合部隊が満州 吉林省和龍県青山里白雲坪(白云坪)·生地水平(泉水坪)·ワンルグ(完楼沟)などの10回に間島に出兵した日本帝国 陸軍との戦闘を行った総称である。

青山里一帯で10回の戦闘終わりに10月28日 、金佐鎮が率いる北路軍政署 独立軍日本軍を青山里白雲坪(白云坪)に誘引、長ねぎ、韓国独立軍側の勝利で終結したと韓国側が主張している。

日本側の史料によると、青山里戦闘で受けた日本軍の被害は、戦士11、負傷24のみで将校事故は見当たらない。この報告書は、靖国神社合祀名簿によって裏付けられている。また、間島出兵後の第19師団の備蓄兵器調査でも、日本軍の戦闘摩耗は非常にわずかであったことが確認されている。

三ヅンジャ棒桐で連覇した日本軍中国の領土を不法に侵略したという非難を取り出したい琿春事件を捏造して、これを機に満洲に大規模な部隊を投入することになる。1920年 10月21日から10月26日までに、吉林省 和龍県内のいくつかの地域で交戦して青山里の谷で日本軍を大幅に大破することになる。青山里戦闘の勝利は、日本が1920年初めから計画された満州内の韓国人独立軍全体の焦土化計画を失敗にした。しかし、青山里戦闘での大勝を契機に、日本中国に圧力を行使して韓国独立軍は、ロシアで一部にわたるなど、満州の独立軍閥は解体の危機に追い込まれる。

三ヅンジャ棒桐で連覇した日本軍中国の領土を不法に侵略したという非難を取り出したい琿春事件を捏造して、これを機に満洲に大規模な部隊を投入することになる。1920年 10月21日から10月26日までに、吉林省 和龍県内のいくつかの地域で交戦して青山里の谷で日本軍を大幅に大破することになる。青山里戦闘の勝利は、日本が1920年初めから計画された満州内の韓国人独立軍全体の焦土化計画を失敗にした。しかし、青山里戦闘での大勝を契機に、日本中国に圧力を行使して韓国独立軍は、ロシアで一部にわたるなど、満州の独立軍閥は解体の危機に追い込まれる。

 

ブログを開設しました

タイトルのとおりなのですが、日韓のウィキペディアでこんなに違うよ!というところを挙げてみたいと思います。幸いなことに、Wikipediaで用いられている丁寧に書かれた韓国語は、Google翻訳Excite翻訳を使うことによって、日本語にとても精確に翻訳してくれます。

参考までに、Wikipediaの編集方針は、概ね下記のようなものです。このブログにおける比較の方針としては、とりあえず何が違うのかというところを挙げるにとどめ、どちらかにWikipediaの編集方針と異なる点があれば指摘してみたいとおもいます。

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